2012年05月25日

こそこそ

えっと。
久しぶりすぎて、やり方をすっかり忘れてしまいました。
ちょっと写真をアップしてみますね。
ほりゃ。

R0010789.jpg

さっき、ログインしようとしたら、
性別だの生年月日だの、聞かれたこともないことを聞かれました。
一年以上放置していたから、不審者扱いされたのかしらん。
ママ、ぼくだよ、ムーミンだよ、の気分でした。
おしまい。
posted by こもだ at 16:47| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月27日

そんな言葉は知らんぞ

リビア関連のニュースをチェックしていたら、
首都防衛のために雇い兵を募集しているとか、
雇い兵が市民を殺りくしているとかいう記事が目に留まった。
何、この「雇い兵」って。

日常的に使う言葉じゃないから、別に実害があるわけではないけど、
こんなに気持ちの悪い言葉は久しぶりに見た気がする。
「雇い兵」
うわっ、ぞわぞわする。気色わりっ。

傭兵、なんて言葉がとりわけ美しいわけでもないのに、
この言い換えは、どうしてこんなに不快なんだろう。

手元にある辞書には、雇い兵なんて言葉は載っていない。
ってことは、報道は、従来からある言葉を使わず、
ない言葉を作り出してまで、常用漢字の規制を守ろうとしているってことか。

ふーん、常用漢字は日本語よりも大事なのか。
それじゃまるで、
健康のためなら命もいらない、っていうのと同じじゃないか。
へんなの。

toysunset01.jpg

ふつうに考えれば、言葉は貧しいよりも豊かな方がいいだろう。
豊かな言葉には、豊かな語彙が必要だろう。
では、豊かな語彙を育てるには、漢字を制限した方がいいのか、
しないほうがいいのか。

これはそんなに難しい理屈だろうか。
ぼくはこれまで、漢字をもっと制限しろ、なんて言っている人に
会ったことがないし、
そう論じている文章を読んだこともない。
漢字制限に反対する議論は、いくらでもあるけど。

いったい、こういう制限とか、書き換えって、
誰のためにやっているんだろうね。

第一さ、あんまり大きな声では言えないけれど、
傭兵という言葉を知らなくて、
調べようとも思わないような人は、
たとえそれを雇い兵と言い換えてもらっても、
やっぱり何も分からないと思う。
で、そういう分かる努力をしない人には、
分からせようとする必要など、ないと思う。

たとえば経済欄の「押し目買いが入って反発した」なんて記事は
明らかに分かる人だけに向けて書いているけど、
誰も文句は言わないでしょ。
スポーツ欄だって、知らない人にはちんぷんかんぷんなんだし。
国際欄だって、そういう姿勢でいいじゃない。

雇い兵。
どーでもいいが、弱そうな名前だ。
posted by こもだ at 01:47| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月17日

値段はわからん

古い古い記憶で出処も定かではないのだけれど、
とあるマンガの中で、
土地を売って儲けた百姓のじいさんが、
金の価値も分からないまま、
ひょうひょうとして途方もない無駄金を使う、という話があった。
その中でも、
フェラーリを買ったがすぐに飽きて、
乗らずにニワトリ小屋として使ってしまう、なんていう
エピソードが強烈で、忘れられない。
「フェラーリでニワトリを飼う」とは、すなわち、
物から価値という仮構をはぎ取り、裸にする行為である。

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さて、こちらの画像は、バーバリーのジーンズである。
ジーンズメーカーとしては有名なのか知らないけれど、
そこはやはりバーバリー、定価は2万円くらいするようだ。
さすが高級感にあふれていますね。

ぼくはこれを今日手に入れたところなんだが、ふふーん、
じつは、掃除のときの作業着に使おうと思っているのである。
ほこりまみれになりそうなときや、水が跳ねて汚れそうなときには、
このバーバリーに履き替えるのだ。
フェラーリでニワトリを飼うみたいだろ。わはははは。

ま、それほど引っ張るようなネタでもないので、あっさり書くと、
このジーンズ、なーんと300円だったのです。300円。
びっくりっしょー。

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ちょっとした汚れと破れでジャンク扱いだったのだが、
そもそもジーンズってもんは、
ダメージ加工だのペイント加工だのわざわざ汚して破ったヤツを
売っているくらいだから、本来この程度の傷みは、
商品としての価値をゼロにしてしまうものではないはずだ。
ではなぜ、2万円でちやほやされていたはずの人生が暗転して
300円になってしまったのか。
この子自身も分かっていないに違いない。

まったく、物の価値というのはじつに不思議だ。
材料費とか、加工時間だとか、そんなものとは関係なく、
2万円のジーンズは2万円だから2万円であり、
2千円のジーンズは2千円だから2千円である。
そして、
このあいだまで2万円の価値があると認められていたジーンズも、
今日300円と言われれば、
ふしぎなことに300円にしか見えなくなってしまうのだ。
ああ、まるで人生の浮き沈みを見ているようではないですか。

フェラーリでニワトリを飼うじいさんの強烈さに
隠れがちだけれども、
いきなりニワトリ小屋にまで落とされたフェラーリの気持ちにも、
こう考えると深いものがあるよねえ。
posted by こもだ at 23:47| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月13日

スマートフォンさえあれば

久しぶりに地下鉄に乗ってみたら、
スマートフォンを使っている人がほんとうに増えていた。
よく目につくのは、20代の若い人たちだ。

ぼくは携帯メールもろくに打てないおじさんだが、
けっこうあの手のガジェットは好きである。
かつてはPalmやClieなんていう機器で、
思いつきをメモしたり、スケジュールを書き込んだり、
電子書籍を読んだりしていたものだ。
だから今でも吊り革につかまりながら、
若者たちのiPhoneをこっそりのぞき見てしまう。
今どきの情報機器はどんな風なのか、やっぱり興味がある。

rocker02.jpg

で、ほどなく分かったのは、
地下鉄の中でiPhoneを操作している人は、たいていは、
ゲームをしているってことである。
サンプル数5人くらいの話だから統計的には意味はないが、
非常に強く印象に残った。

ま、いろいろな使い方のできる機器というのは、
えてしてそういうものである。
娯楽番組から教養番組まで幅広く放送するテレビで、
圧倒的に見られているのは娯楽番組の方だし、
家庭で使われるパソコンで収集される情報は、
見たはしから忘れてしまうようなものがほとんどである。
スマートフォンも例外ではない。

素晴らしく役に立つ情報機器に素晴らしい役が任されることは
きわめてまれで、たいていはろくでもない気晴らしに使われる。
そのためだけに使われると言ってもいいくらいだ。

そのこと自体は悪いことじゃない。
ぼくもパソコンは、ほとんどそういう気晴らしに使っている。

しかし、パソコンといいスマートフォンといい、
おそらく買おうと決めたときには、そうとう高尚かつ知的な
できるビジネスマン的な使い方を想定していた人が多いだろう。
知的な道具を手にしたら、
もう知的で知的で仕方がないような生活が待っている、
なんて、ついつい思ってしまいがちだもの。

これだけいろいろな道具を遍歴してきて、
何も変わらない自分を十分に知りながら、
いや次の道具こそは、おれを知的に変えてくれるに違いない、
と期待してしまうのは面白い。
これは今どきの、一種の信仰なのかもしれないね。
posted by こもだ at 00:17| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月01日

なんとか直して使うのさ

修理に出していた腕時計が帰ってきた。

オーバーホールしてもらって、ぴかぴかになったのは
いいのだが、
ちょっと言えないくらいお金がかかってしまった。
財布もオーバーホールしちゃったわけだな、わっはっは。

…で、その時計を受け取りにいく途中で、
靴も直しに出してきた。
こっちは840円。
高くはないが、そもそもリサイクルショップで買った
1500円の靴だから、安くもない。

rocker04.jpg

というわけで、ま、ぼくは身の回りのものを
いろいろ修理しては使っているのだが、
世の中全体の傾向としては、もう修理なんてことは
ほとんど顧慮されていないのではないかって思う。

以前は革靴のかかとは何度も直していたし、
ちょっと高い靴だったら、靴底全体を張り替えたりして
けっこう長く履いていた。
ところが今どきのウォーキングシューズってやつは、
そもそも最初から、直せる設計になっていない。
いちばん弱いゴム底がすり減ったら、
ほかがいくらしっかりしていても、捨てる。
それが当たり前である。

これは靴に限らない。
パソコンでも、マザーボードを交換して8万円なんていう
修理をする人が、どれだけいるだろう。

でね。何が言いたいかっていうとー。

よく子どものゲームをあげつらってさ、
駄目ならすぐリセットするのがいけない、なんてことを
言ったりするじゃない。
でも、壊れたら捨てて買い直すっていう風潮は、
つまるところ
このリセットしてやり直すっていうのと、
まったく同じじゃないかと思うわけ。

極端に言えば、
部屋が汚れてきたら引っ越ししちゃうとか、
仕事がごちゃごちゃしてきたらほっぽり出して転職しちゃうとか、
服にシミが付いたら捨てちゃうとか、
けんかしたらすぐ絶交しちゃうとか、
つらくなったらそのまま引きこもっちゃうとか、
そういうことにつながる要素があるんじゃないか。
そこまで言うのは極端でも、
根っこの部分は同じじゃないか、と思うのよ。

たしかに、直すより捨てるのが正しいんだよ。
でもそれは、経済という観点に立てばこその話であって、
ぼくたちの人生というのは、
何も経済だけで成り立っているわけじゃない。

今あることを何とか工夫してマシなものにしていく。
こんがらがって行き詰まってどうしようもなくなっても、
粘って何とか手を打っていく。

時代の風潮がどうであっても、
こういう姿勢だけは、ちゃんと守って行かなきゃだめだよね。
posted by こもだ at 00:03| Comment(4) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月30日

ことばが失われるときに

今ぼくたちが現に生きているこの世界は、それを
どのように見るか、
どのように感じるか、
という姿勢によって、さまざまな様相を示す。

当たり前の話だが、この世界、とひとくちに言っても、
ミノムシにとっての「この世界」は、
暗くて狭くて風に揺れるものであり、
となりのおっちゃんにとっての「この世界」とは、
ネクタイを締めて地下鉄に乗って出かけるところである。

世界の立ち現れるありさまは一様ではなくて、
それを受け取るぼくたち自身のあり方によって決まるのだ。
その意味で、世界はぼくたち自身の姿を映す鏡だ。

こういう世界のあらわれ方を、世界観、という。
世界は自分の鏡だから、
世界観とは、人生観とほぼ同義と言ってもよい。

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まあ、ふつうにいえばこんなことなのだが、
いつの間にやら、この言葉は、
まるっきり違った意味で使われるようになっている。
ご承知のとおり、
ゲームの舞台設定やその雰囲気、という使い方である。

ことばがどんどん形を変えたり、
ぜんぜん別の意味を持って使われるようになったりするのは、
ごく普通のことだ、
だからことばの使われ方が変わったくらいで驚くべきではない、
という考え方もある。

でも、ぼくはそうは思わない。
世界観という言葉がなくなることは、
世界の見え方は自分のあり方そのものである、という事実を
とらえる糸口のひとつを失うことだ。
そして、
自分にとっての世界、自分を取り巻く環境、自分の生きる場を
変えていくには、それを受け取る自分自身を変えるしかない、
という自己変革の契機もまた、失われることになるだろう。

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言葉は、ただコミュニケーションのためだけにあるのではない。
言葉が自分に向けられたとき、
それは、わたくしという世界を作り上げる材料となる。
だからひとつの言葉が失われるたびに、
わたくしの中から、あるべき何かが欠け落ちてゆくのだ。

ひとつひとつは、ほんの小さなかけらに過ぎないだろう。
でも、その小さなかけらが消えるごとに、
ぼくたちはその分だけ、ぼくたちではなくなっている。

子どもたちの未来には、すでに世界観という言葉はない。

子どもたちは、ほかにどんな言葉を失ったのだろう。
言葉を失った心には、どういう世界が映るのだろう。
posted by こもだ at 00:46| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月17日

雪の降る街を

センター試験の日には雪が降る、というお約束通り、
この冬初めての雪になった。
朝から断続的に降り続け、夕方には足首まで埋まるほどになった。

日が暮れてから、雪の街をみてみようと、お散歩に出かけた。
見慣れた星ヶ丘までの道が、まるで知らない北国のようだ。
ビルの明かりやクルマのライトに照らされた雪に、
道を行く人たちの影が浮かぶ。
すれ違う人はみな、髪にも肩にも雪を残している。

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名古屋はほとんど雪が降らないので、
雪に備えている人はそれほど多くない。
すっかり踏み固められている下り坂の歩道を、
片手に傘をさした自転車のおねえさんがそろそろと走っていく。
勇者である。

オートバイも何台か走っている。
オートバイは傾けないと曲がらない乗り物だが、
凍結路で傾けるとふつうは転ぶ。
ブレーキをかけて前輪が滑ると、ひとたまりもない。
凍った道で転ぶと、起こすだけでも大変である。
あれでちゃんと帰り着けるのだろうか。
心配ではなくただの興味から、見届けたくなった。

このあたりは坂道が多い。
立ち往生しているクルマは2台や3台ではない。
面白いもので、困っている人には同情しても、
停まっているクルマにはそういう気持ちを感じない。

ふと、
目の前の人を撃つことはできなくても、地図上の地点とか、
建物だったらためらいない攻撃できる心理と同じだな、と思った。

まとまりのない雑感だけど、
年に一度あるかないかの機会なので、書き留めておく。
posted by こもだ at 00:20| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月16日

ほんとうの姿ってのは

ま、ぼくは男だから、いつでも素顔のわたしなんだが、
女性はふつう、
お外に出るときは化粧を整えるってことになっている。

さて、すると女性にとって、
素顔とお化粧の顏のどっちが本来の姿なんだろうか。
素朴な感想としては素顔が本来の姿と思いがちだけど、
どうなんだろうね。

window-neko.jpg

たまたま部屋を散らかしているとき、来客があったとしよう。
きっと、
ふだんはもっとちゃんとしているのに、って思うだろう。
大あくびしている瞬間を写真に撮られたら、
ほんとは私はそんなんじゃないのに、と憤るだろう。

これはつまり、
しっかり意識して、見られる姿を整えているほうを
「ほんとう」と感じているからだ。

だったら女性にとって、きちんとお化粧をした顏が、
この意味で言う「ほんとうの姿」ってことになる。
明るく華やかな顔をしている人が、
化粧を落としたら
地味でつまらない顔になってしまうとしても、
それは、ほんとうは地味でつまらない顏、なのではなく、
つまらない顔のようにみえるけれど、
ほんとうは明るく華やかな顏、なのだ。

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女性に限らず、人のほんとうの姿は、
くつろいだ=油断しきったおうちの顏であるよりも、
自分の意志で作り上げたよそ行きの顏の方だと思った方が、
何かとよいような気がする。

もし、何も手を加えないそのままの状態の方を
自分と規定するならば、
意識の制御を離れ、がーがーいびきをかいて寝ている姿が
いちばん自分らしい、ということになってしまうけど、
それは、違うでしょ。
自分で意識して作り上げた姿こそがほんとうの姿、
見せたい姿が本当の姿、
と考えるほうが、よほど自然だ。

ふだん人目につかないような、
人間の汚い愚かな狡い弱い見苦しい残酷な部分を
ことさらに描き出して、
これが人の真実だ、なんていう顔をしている
文芸作品もあるけれど、
こういう視点に立ってみると、
そうと決まったもんじゃないって気がする。
トイレに座っている姿がいくら情けなくても、
だから人間は情けない存在です、
なんていう結論にはならないように。

この方がよくない?
明るい感じがしてさ。
posted by こもだ at 00:06| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月12日

賢い消費者ってのは

食料品を買うとき、賞味期限をちゃんと確かめるのは、
買い物のイロハである。
同じお金を払うなら、新鮮な、賞味期限のできるだけ
長いものを選ぶ方がよいに決まっている。
わざわざ奥に並んでいるのをかき分けて選ぶ、
ってのも、ま、ありだろう。

ところで、ご承知のとおり、
ハンバーガーショップでもコンビニでも、
古くなった商品は、どんどん廃棄処分にする。
とんでもない量らしいね、これが。
小さな国なら一国分の食糧をまかなえるくらいとか。

よくないよね、こういうのは。
よその貧しい国からたっぷりと食糧を輸入して、
食べもしないで捨てるんだから。
その国には飢えている人もいるだろうに、ひどいよね。

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さて。
ここでぼくが話題にしたいのは、じつは食品廃棄の問題ではない。
製造日の新しい食品を選ぶのは構わないし、
一方まだ食べられる商品をどんどん捨てることを
咎めるのも筋が通っている。
そのこと自体をとやかく言おうというのではない。

言いたいのはただ、
ひとりの人がその両方をやってしまうのはよくない、
ということである。

言うまでもないことだけれど、
賞味期限切れの食品が捨てられている背景には、というより、
むしろ直接の原因として、
いちばん新鮮な日付のものしか買ってもらえない、
という現実がある。
もうちょいとストレートに言うと、
お店から大量の残飯が出る原因の一端は、
後の列から牛乳を選ぶぼくやあなたにある。

にもかかわらず、食糧の大量廃棄には反対、というのは、
どう考えてもおかしいだろう。
言行不一致ってやつだ。

これは、日常的なだけに、なかなか大きな問題だ。

残飯をこんなに捨てちゃいけないよね、と考える以上、
いちばん古い牛乳を買うのか。
あるいは、残飯のことについては口をつぐみ、
いちばん新しい牛乳を買うのか。
それとも、
残飯の問題を語りながら、それこれとは話が別と割り切って、
自分は新しい牛乳を買うのか。

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思想の価値とか有効性とか一貫性とか、
ことばとか、理性に対する信頼とか、
倫理とか、正しさとか、人としての矜恃とか。

じつにぼくたちは、スーパーの食パンの前で、
自分という存在のありのままの姿を問われているのだ。

さらに自分の些細な行ないが、
つもりつもって社会のありさまを決めている。
ってなことまで考えれば、
これはまた、社会に対する責任の問題でもある。

ひゃーっ。

posted by こもだ at 01:37| Comment(3) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月06日

いちばん親切、顔の飢餓

中学生の英語の教材に、
「このクラスで一番親切なのは誰ですか」
なんていう文を書かせるのがあった。
おもしろい。

電車でおばあちゃんに席をゆずった太郎君と、
雨の中で捨て猫を拾った次郎君と、
弁当を忘れた友だちに自分のを分けてやった三郎君を比べて、
だれの親切ポイントがいちばん高いかを比較考量すると、
まあ、そういうことになるんだろうか。

英語の勉強なんだから、そう目くじら立てなくても、
と言われそうだけれど、
こういうリアリティのない文を中学生に書かせるのは、
言葉を教える方法として、たいへんまずいと思う。
だってそれでは、
言葉なんてのはね、それっぽいことを書いときゃいいの、
意味なんかいいの、
って教えているのと同じなんだから。

italy-bottles.jpg

これと関係があるのかないのか、
英文和訳をさせると、日本語としてまるっきり
意味をなさない訳文を書いて平気な子が多い。

たとえば、
face starvation 「飢餓に直面する」を
「顔の飢餓」と訳してしまう類いである。
もちろん分かっていないのだから、
おかしな解答を書くこと自体はいたしかたない。

しかし、誤答は誤答なりに、
意味の通った解答をしようという意思が見られないこと、
言い換えれば、
意味を持たない言葉を怪しまないということは、
ちーと問題なのではないか。
せめて、「飢えて苦しそうな顔をする」とか
「飢えた顏」とでも書けないものか。
これは英語力ではなく、言葉に対する姿勢の問題だ。

そもそも勉強っていうのは、
教科書やら先生のお話やらの言葉を介して
その言葉が指し示す意味を理解し、
蓄積していくことをいうのだから、
意味を持たない言葉に違和感を覚えるという感覚は、
とても大切なのだと思う。

聴く言葉には意味を求め、語る言葉には意味を込める。
こういう当たり前のことを、
ぼくたちは、もっともっと大切にすべきなんじゃなかろうか。

wine-bottles.jpg

ま、もちろんね、
ロートレアモンの
「解剖台の上のミシンと蝙蝠傘の偶然の出会いのように美しい」
なんていう文も
それなりにくらくらしてしまう魅力があるのだし、
ナンセンスな言葉は全部ダメ、なんてことが
言いたいわけじゃないんだけどさ。
posted by こもだ at 00:28| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月04日

無理をしよう

新年だー。
ということで、明日から塾も始まるのでした。
さあ今年も、がんばりましょうね。

で、この「がんばる」っていう言葉が言っているのは、
つまり、「無理をしようぜ」ということだって、
みなさん知っていましたか?

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努力というのは、無理をすることです。
「みんなちがって、みんないい」というのはそのとおりですし、
「世界で一つだけの花」をめざすのもいいのですが、
それは決して、努力しないでいいんだよ、
なんてことを言っているのではありません。

「たねはたね、つぼみはつぼみでいい」
なんてことは、誰も言っていません。

もうちょっと無理をして、
あなたのたねにふさわしい、あなたのつぼみがひらけるだけの、
いちばん大きく、いちばんきれいな花を咲かせましょう。

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さあ、力を振り絞れ。
がんばれ、受験生。
posted by こもだ at 22:14| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月31日

振り返れば

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今年はとてもよい年でした。

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来年もよろしく。
posted by こもだ at 00:10| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月22日

では、そこにいるのは

明かりの消えた店の外。こんな張り紙を見つけた。

男もおらず、
女もおらず、
そのいずれでない者もない。

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古くは晋代の山海経(せんがいきょう)に描かれた
人外あるいは魔境の地か。
きゃー。

posted by こもだ at 00:03| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月19日

ことば遊び

泣く菰田。
(読み:泣く子も黙る)

すみません。思いついたらがまんできず…。
くだらないです。すみません。
言葉遊びです、仕方ないです。
かんにんです、かんにんです。

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posted by こもだ at 00:31| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月13日

MOU48

ものすごく私事ながらきょうは誕生日。
もう48である。
よもや自分がこんな年齢を迎えることになろうとは、
思ってもみなかった。

そういえば以前、小学生の女の子に歳をきかれ
答えるのをためらったことがあった。
えーっ、せんせーそんなおじさんなの?
なんて言われるのが嫌だったのだ。
そのとき、ぼくは35。
35でもうおじさんと思っていたなんて、
どうにも贅沢な話である。

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フォーエバーヤングなんていうありえないことを願うのではなく、
年齢相応の賢さを身につけていけたら、と思う。

人の世には、
40にならなければ分からないこと、
50になってはじめて身につく知恵ってものがあるはずなのだ。
そいつがちょいと、楽しみだ、と言っておこう。
posted by こもだ at 01:22| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする